2001年9月、1度目の乳がん発見から入院までの経緯は以下へ。
2001年
9月30日
35歳の誕生日に入院。
この日は日曜日。病院全体がひっそりしている。
入院病棟のナースステーションに声をかけると、まず体重と身長測定。
その後ベッドへと通される。この時は4人部屋を選択。
パジャマに着替えてベッドに腰かける。
それまでざわざわしていた心が嘘のように静かになる。
悟りではない。矢でも鉄砲でも持ってこいというか、まな板の上の鯉というか。
とにかく心がいたって静かになった。
麻酔医との打ち合わせののち、夕方にA先生の訪問を受ける。
よう来たな。明日だからね。
いたって明るい。
10月1日
朝いちばんの手術。
朝9時にナース、麻酔医がきて麻酔、
そのままストレッチャーで手術室へ運ばれたようだ。
昼には病室に戻っていた。
麻酔から覚めてからの回復が早く、点滴スタンドをガラガラ引きずりながら、
煙草を吸いに行ったり、売店にお菓子を買いにいったりできた。
10月2日
朝からとても元気。
この時点ではまだ抗がん剤をやるかどうか決めかねていた。
このとき、前年にイギリス留学から戻ったばかりで、求職中の矢先の乳がんだったため、将来への展望がまったく描けず、抗がん剤で身体へのダメージを受けることで、求職が難しくなることを恐れていた。
10月3日
朝の回診で、左胸に貼られた大きなガーゼを取る。
傷を見て感激。細い一本の線がすーーーっと左胸上部にあるだけ。
まだ30代半ば、どうしても綺麗に胸を温存したかったから、
大げさだが、これで正々堂々と生きていけると思ったほど。
この日からシャワーの許可出る。
シャンプーをして生き返る気持ち。
10月4日
まだ抗がん剤をやるかどうか決めかねていた。
同室の方々と仲良くなり、一日中あれこれおしゃべりが弾む。
私と同日に手術をしたKさんの個室を見舞う。
Kさんとは、慶応の近藤外来で出会う。大阪から来た人だ。
当初大阪の病院で手術をする予定だったが、その病院で乳がんの手術をした方の
手術痕を見て翻意。美しく温存したいという気持ちが強く、
手術をドタキャンして東京へ、近藤外来へ来た。
すごい行動力の人。
2000年前後、まだ温存療法はいまほど広がりを見せておらず、
綺麗に温存したいと希望しても、命と胸とどっちが大事?などと言われた。
どっちも大事に決まっている。
手術して終わりじゃなく、その傷を抱えて生きていくこっちの身にもなれ、と
言いたいところ。
Kさんは、抗がん剤もしないと決めたそうだ。どうしても髪が抜けるのがいやだと。
美意識も高い人。でも、いたって温和な女性だ。
10月6日
病理の結果を聞く。
普通の顔つきのがんだなあーとA先生。
トリプルネガティブなので、ホルモン療法は適用外。
抗がん剤について再度意志を確認されるが、
抗がん剤についてはまだ決めかねていることを伝えると、
退院時までに決めて、と迫られる。
10月7日
明日退院することが決まる。
ベッドでひとりぼんやりとしていると、A先生がやってきた。
抗がん剤どうする?決めたかい?
私はまだ決めかねていた。
早く職を得て、働きたい。無職のままでは生活できない。
人生を切り開きたい、否、取り戻したい、と焦っていた。
いいかい?
正直に言うと、抗がん剤が君に効くかどうかはわからないんだ。
抗がん剤しなくても助かるかもしれない。抗がん剤は無駄かもしれないんだ。
でも君は若い。だからやってみる価値は僕はあると思うんだよ。
ずるずると決めかねていた私を、
決して追い立てることはせず、しんみりと話してくれたA先生。
そこまで言ってくれるなら…と気持ちが動くが、
結論は明日出すことにさせてもらった。
10月8日
退院。
抗がん剤をやることに決めた。
退院後、抗がん剤に通うことになる。