ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

私の主治医は近藤誠医師でしたがなにか。

 

近藤誠医師のところで治療したと知るやいなや、

烈火のごとく怒られる私。

 

最初に言っておきます。私は近藤シンパではない。いまの近藤誠医師の言動に支持できるところはない。

 

でも2001年当時、日本中から乳房温存療法を求めて、多くの乳がん患者が慶應の近藤外来に集まってきていて、私もそのひとりであった。そこにはいまとは少し違う近藤誠医師がいたと思う。私は、近藤誠医師の元で希望した通りの治療ができたし、17年間再発もしていない(2017年の右乳房のがんは原発である)。

 

 

捨て台詞オブザイヤー2001

絶対10年後生きていないから!死んでるから!

 

ふだん、風邪や皮膚炎やケガ、虫歯などで、病院を受診する際に既往歴を尋ねられたとき、左乳がんの治療時に当時慶應の近藤誠のところで治療した、と言うやいなやほぼ全ての医師が烈火のごとく怒り、私が謝ってその場を収めなければならないという理不尽な状況を作るので、それが面倒くさくなって、近藤医師のところは端折って話すことにしている。

 

そもそも、最初にがんと診断してくれた医師に、セカンドオピニオンを聴きに近藤誠のところに行くと告げると、君はここに戻ってこないよ。近藤に口当たりのいいこと言われて、近藤のとこで治療するんだよ。でも君は絶対10年後生きていないから!死んでるから!と捨て台詞オブザイヤー2001を投げつけられたのである。

 

でも私は、2001年のときに受けた乳がん治療にとても満足していて、その満足は何かと考えると、それは乳房温存手術の低侵襲性にあるのだった。近藤誠医師が手術したわけではないので、手術をしてくれたA医師のおかげなのであるが、にしても、近藤医師とA医師という両輪がワークしてはじめて、2001年に実現できた治療であったと思う。16年間生存したという結果も含めて。

 

 

命と胸、どっちが大事?

両方に決まってるじゃないか。

 

2001年当時、命と胸、どっちが大事?とか、胸見せて外を歩くわけじゃないとか、医師も周囲も私に言った。命も胸も大事に決まっているではないか。34歳でそのどちらかを手放してよいと思えるようなエッジの効いた精神で生きていなかった私は、どうしてもどうしてもその両方を可能にできる方法を探して、たどり着いたのが近藤誠医師の著書「乳ガン治療あなたの選択ーー乳房温存療法のすべて」であった。

当時の近藤医師は、乳がん患者会イデアフォーの勉強会などにも積極的に参加され、啓蒙活動に努めていた。

 

そして捨て台詞オブザイヤー2001をものともせず、近藤外来へと吸い込まれていったのである。

 

乳ガン治療あなたの選択―乳房温存療法のすべて

乳ガン治療あなたの選択―乳房温存療法のすべて

 

 

 

もう一冊、とても参考になったのは、中浜潤子「乳ガン医師選択権(ドクターズショッピング)」だ。これは、ワインジャーナリスト中濱潤子さんの乳がん治療記であるとともに、温存療法の種類や抗がん剤のこと、当時温存療法を積極的に実施されていた医師のインタビューや医療機関リストまで網羅しているという、素晴らしいお仕事である。古くなった部分も多いが、セカンドオピニオンQOLの重要性など、今でも十分に参考になる考えを示されている。絶版なのが残念。

 

乳ガン 医師選択権(ドクターズショッピング) (小学館文庫)

乳ガン 医師選択権(ドクターズショッピング) (小学館文庫)

 

 

結局、気が付くと私は中浜さんと同じ、近藤誠医師からA医師の所属するO 病院へ送り込まれ、温存療法、抗がん剤放射線と受けることとなった。

 

 

近藤外来で満足した人は、目的が明確な人。

良くも悪くも。

 

近藤外来の様子については、また別に書きたいと思っている。毎週水曜日、慶応病院地下の放射線科が、女性だらけになり、座る場所もないほどの盛況だったこと、A医師のO病院も同じくそうだったこと。そこに集まる個性豊かな女性たちのこと。忘れえぬ出来事がたくさんあった。

 

近藤外来(およびA医師)で私が満足したのは、目的が明確だったからだと思う。手術するのはいい。だけど、私はどうしてもくりぬきの温存手術がしたかったのだった。手術痕が残ってもいい。でもそれはあくまで目立たないもので、それが異性であれ、同性であれ万が一他人に見られても決してグロテスクでなく、気にならないものであることを目指した。

 

なにより、治療が終わってから、私自身が毎日この体を、否が応でも見る。もし満足していない手術だったら、私は自分の体に目を背けるのか。精神的に強くなって直視できるようになるのか。そして私がそれを嘆いたら、人は私を自己憐憫と言って馬鹿にするのか。もっと強くなれというのか。結局、治療後は自分で何とか生きびろ、と言われるのである。

 

私はこの体で生きていかなければならないので、低侵襲で、エステティックであることをなによりも望み、そして叶えた。だから満足しているし、10年後生きていないから!という呪いにも勝った。

 

近藤外来で満足した人というのは、何を目的にするかが明確なのである。私にとっては低侵襲な手術であり、ある人は抗がん剤をしないことであり、手術を断固拒否した人もいる。それは、誰にも理解されなかったとしても、その人だけのこだわりを明確に伝えて、それが可能だった人が近藤外来で満足を得た。

 

近藤医師の言葉を信じて、問題になっている方の多くは、がんの恐怖と治療の恐怖を混同されている方たちが多いような気がしている。そういう意味ではまったく万人向けではない。そもそも、がんの恐怖と治療の恐怖、治療後の恐怖が綯交ぜになっているのが、がん患者なのであるが、そこを腑分けしていって、自分の望みを知るというのは本当に難しい。だから34歳の私、ちょっと頑張ったな、とほめてあげたい。

 

2001年当時なら、まだwebで気軽に検索して情報を得ることが出来なかったから、近藤医師の著作を鵜呑みにしてしまうこともあっただろうけど、情報はいくらでも取りにいける2018年のいま、近藤医師の主張を鵜呑みするというのは、がんの恐怖と治療の恐怖を混同し未分化のままにしているのと同じだ。死ぬのは怖い。抗がん剤などの治療も怖い。そして安易に近藤医師を信じてしまう。

 

とはいえ、最初にがんってわかったとき、これっぽっちも冷静に考えることなんてできなかった私が偉そうに言えるものではないのだけど。ケガでオリンピック2連覇を心配されていた羽生結弦も、オリンピックの勝ち方を知っているので、と言っていたが、私も乳がん治療を知っているいるので、2度目は割と冷静だった。と、ユヅと同列に語ってみた。

 

近藤誠医師は、そもそも痛い人ではあったのだけれど、やはり分水嶺となったのは、A医師との決裂だったのであろう。あれから近藤医師の迷走が始まったように思う。

 

近藤外来および、A医師の元に日本全国から集まった乳がん野良患者のことなどは、また改めて書きたい。いま思い出すとカオスだったなー。

 

#近藤誠 #乳がん #乳房温存療法

 

 

 

 

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