このことについて書くつもりはなかったのだけど、やっぱり書くことにする。我が母校が輩出したふたりの女優のうち、死後まで話題をさらっている、樹木希林先輩の例の広告のことである。
地球さん、って。キャッチコピーがダメ。ボディはこっちが好きだな。
これはキャッチがいいけど、ボディがダメ。
晩年、ちょっと変わった、でもほっこりしたイメージに乗っかっていた樹木希林先輩。全身がんとか、ちょっとアレな発言があって、私は同じがんサバイバーとしては距離を感じていた。全身がんって、そんな言葉ないし、受けていた治療も特殊なものだったし。
でも「死ぬ時ぐらい好きにさせてよ」から、今回の2種の広告に至る流れに乗った、樹木希林先輩はあっぱれ。トリックスターとしての役割を果たした。トリックスターだから、これでいい。宝島社さんは、彼女の心性をよく見抜いたと思う。
ただ、アマノジャクな私は世の中の反応にひっかっており。書くつもりがなかったのは、樹木希林はトリックスターだからこれでいいけど、みんなの反応がナイーブ過ぎなのでは?と思っていたから。
命を使い切る、生き切る、ってね。結局、誰か、第三者の評価、言葉なんですよ。自分が自分に、使い切った!生き切った!なんて、思えることは決してないと思うんですよ。
生きることも死ぬことも、自分でコントロールできる!って思いたいのかなあ。こうありたい、って理想もあるし、そうなれるように準備することも結構だけど、死について、私は謙虚でありたいし、畏敬の念を持っている。
思い切って生きたほうがいいに決まっているし、私もそうするつもりでいるけど、命がある、生きている状態って結構不自由じゃないですか。そんなに100%思い切ってやります!やりきります!って、なんの躊躇もなく言えることってありますか?この体を持っていると、どこかで損得勘定している自分がいませんか?出し惜しみしている自分がいませんか?それが体を持って生きていることの不自由さだと思うのですよ。だからこそ、命を長らえていられるのですよ。毎日思い切っていたら、すぐ死ぬよ。危ないよ。
それに、いざ死ぬってなってもね。死ぬまで心は一直線に向かうわけではないんです。それは妹が教えてくれたことなのだけど、妹が死ぬまでの約一か月間、苦しみ、喜び、悔い、希望、絶望、さまざまな感情があふれてくるんです。行ったり来たり、曲がりくねったり、心は大きく揺れ動き、制御できるものではないんです。心だけではない。身体状態も、誰も予測できるものではなかった。対処することも難しかった。人の命は本当に不思議な、奇跡のようなものなんだと知ることができたんですよ。
命を使い切る、生き切るよりも大切なことは、命が消えそうになった人の目の前に、ただそこに、共に在る。そこから逃げないで在る。在ってくれる人を見つけることだと思う。逃げないで在る。そういう関係を切り結ぶ人がいるだけで、極上な人生かと思うのだけど。
そういう意味では樹木希林先輩は、成功したと思う。夫以外の家族とはいい関係であったようだし、親友までずっとそばにいてくれたようだし。淡い人間関係がいいようなこと言っていたけれど、決してそうではなく、近しい友人に対しては深く付き合っていたらしい。
元・広告屋の私は、なんかこの広告が、ひとりの希代の女優、トリックスターにおんぶにだっこに肩車な気がしてしまいまして、クドクド書きました。
ちなみに、母校が輩出した女優ふたりのうち、もうひとりは太地喜和子である。どっちも個性派だなあ。