私は築地・明石町で生まれ、深川・木場で育った。実際は、父母の新婚生活が始まった地・品川にいたこともあったらしい。品川、明石町そしてその後、いくつかの家を経て、父母と私は木場の家に移った。当時の木場は文字通り、材木の町だった。材木を保管する倉庫と作業場、材木を運び出すトラックが行きかう、荒っぽい印象の町だった。
私たちの小さな家は、材木問屋に囲まれた、東京の下町を絵に描いたような町並みの中にあった。平屋と平屋の間はギチギチに立て込んでいて隙間はほとんどない。そのうえ、どこまでが家なのか道路なのかの境目もないほど植木鉢はいたるところに並べられ、と同時に、植木鉢の置かれた小窓からはその一家全員の洗濯物がたなびいている。そういう下町の風景の中に、私たちの家があった。玄関横に夾竹桃が植えられていて、夏になると赤い花をつけた。
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妹は、2015年10月に入院した。激しい頭痛と高血圧、吐き気で体力を著しく消耗し、日常生活を送れなくなったからだ。入院後は毎日あらゆる検査をしたが、原因は依然としてわからずじまいだった。私は毎日妹を見舞っていた。10月の終わりごろから、私が病室におもむくと看護師さんがやってきて、おねえさま。ご都合もあると思うのですが今晩、妹さんに付き添ってあげることはできませんか?泊まっていくことはできませんか?と尋ねられた。その頃の妹は体調はもちろん芳しくなかったが、重篤な容態になっているわけではなかった。普通に話しもできたし、車いすで病院内の売店に行くこともできた。妹はお姉ちゃんも大変だから毎日見舞いに来なくていいと言う。だから毎日毎日、看護師さんたちから、泊まっていけませんか?と尋ねられることの真意がわからなかった。
11月に入りやっと原因が判明した。それまで抗がん剤の副作用と説明されていた頭痛と高血圧は、腰椎穿刺をしてようやくがん性髄膜炎だとわかったのだ。そして余命はあと1か月ほどという告知を受け、その日から私は妹の病室に寝泊まりすることに決めた。
看護師さんたちが言うには、妹は深夜に激しい頭痛が起こることが多く、痛みの凄まじさと死への恐怖で泣き叫び、それを鎮めるのに時間がかかっていたそうだ。夜、人手が少なくなる時にその状態では、看護師さんたちも窮していたのだろう。
消灯時間になり、妹のベッドの右側に私の簡易ベッドを置いてもらい体を横にすると、お姉ちゃん、手をつないで。と妹が右手を伸ばしてきた。私は左手で妹の手をつかまえる。手をつないだまま、私たちはただ沈黙していた。またふたりきりの夜になったね。と妹がぽつ、と言った。そして、お姉ちゃんはがんばったよね。とまたぽつ、と突然、なんの脈略もなく、私に話しかけてきた。
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木場の家に引っ越して1年ほどして、父が出て行った。それから数か月間、私は叔母の家に預けられ、その間に母はひとりで妹を生んだのだった。
私が叔母の家から戻ると、母はもう以前の母ではなかった。母の目には私がどのように映っていたのだろう。恋人や夫にあたるように私にあたった。なんで私のことわかってくれないの。なんで私を助けてくれないの。そのとき私は4歳で、母には気の毒なのだが助けてあげることができるスキルをなにひとつ持っていなかった。それでも母は私に助けを求め続けた。
母は1年ほど寝たり起きたりの生活を続け、少し心が回復したのだろう、居抜きの割烹を手に入れ小料理屋を始めた。夕方仕込みのために家を出て、客が帰るまでは店を開けておくため、帰宅は何時になるのかわからなかった。その日のうちに帰ることはなく、夜が白むころ、朝方に帰宅することがほとんどだ。その間、私にはお姉ちゃんなんだからという大義名分の元、まだおむつも外れていない妹とふたりきりで夜を過ごせという。お姉ちゃんなんだから作り置きの晩御飯を妹に食べさせ、おむつを替え、寝かせ、自分のことは自分でしてくれというのだ。子供だけで一晩過ごすことの恐ろしさ。心細さ。テレビは大音量でつけっぱなしにし、もちろん部屋の照明は寝る時も全開だ。誰に頼ることもできないのに泣いたりぐずったりする妹と、それでもお姉ちゃんなんだから、なんとかしろという母への憎悪が4歳の私の心とからだ全身に溜め込まれていた。凄まじい絶望感があった。
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またふたりきりの夜になったね。お姉ちゃんはがんばったよね。という、なんの脈略もない言葉とともに、つながれた手から手へ流れこんでくるものがあった。電気ショックにでもあったような衝撃とともに、私ははじめて気がついたのだった。あのとき、私の足元に転がされていた赤ん坊だったの妹の絶望に。それでも私を信じ、頼るしかなかった妹の心に、これまで思い至ることはなかった。私は孤立無援だと思いこんでいたけれど、そうではなかった。私を信じてくれる唯一の人、それが妹であったと、はじめて気がついたのだ。
私はね私のまわりすべてから、悲しいことを遠ざけたかったの。そのために力が欲しかったの。だから仕事を頑張ったの。仕事をして偉くなって悲しいことからみんなを守りたかったの。でもそうなれなくて、ごめんね。と弁解すると、うんうん。そうだよね。お姉ちゃんはじゅうぶん頑張ったよ。すごいよ。私の自慢のお姉ちゃんだよ。と優しく私を労ってさえくれた。しかし、妹がそう言ってすぐ、つないだ手の様子が少し変化した。あの痛みがまた妹を襲ったのだ。私がナースコールを押すと、すぐ看護師さんたちが部屋に入ってきた。脳圧を下げる薬を点滴で落としだすとしばらしくて、妹は静かになったが、また30分後には痛みが襲う。朝まで、それを繰り返すのだった。
翌朝、妹の様子が落ち着いたのを見計らって、チーフ格の看護師さんが病室を訪れた。かおりさん、今後、万が一、意識がなくなった場合、延命するかどうかの判断は誰がしますか?と聞きにきたのだった。これから起こることすべて、姉に聞いてください。私は姉の判断に従います。と妹は答えた。私は看護師さんの後ろでその言葉を聞いていた。そして今度は姉としての役割を果たすと決めた。私はもう孤独と夜を恐れる4歳ではなかった。私たちだけで過ごす夜は妹が亡くなるまで続いた。
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ウチとソトの見境のない下町の良さなのか悪さなのか、勝手に我が家の事情に口をはさんでくる人たちが大勢いた。お姉ちゃんなんだから頑張れといい、ママの仕事はなんだと聞き、あらぬ噂を立て、また母の奮闘により経済的に恵まれていた私たちをねたんだりした。度を超えた植木鉢の多さや洗濯物など、いまなら下町情緒と思えるが、その隙間のなさと同じように、人々の間にも隙間がない。土足で人の家の事情にズカズカとはいり込んでくるくせに、私たちの困窮には見て見ぬふりをした。私には子供らしく甘えて、息をぬくような時間も場所もなかった。
私が私立中学に進学した年の夏、引っ越しをした。それから、あの頃のことを妹と話すことは殆どなかった。私の絶望なんざ、赤ん坊だった妹にはわかりはしない、と思っていた。あの夜、なぜあの頃の話を持ち出したのか不思議でならないが、私のわだまかりというか、思い込みというか、そういう頑ななものを溶解しなければならないと、妹は思っていたような気がする。
数年前、一度だけあの家を見に行ったことがある。私の家は取り壊され、更地になったまま、雑草が生い茂って放置されていた。材木問屋の家々はもう跡形もなく、広大な木場公園と美術館に姿を変えていた。見境なく置かれていた植木鉢も洗濯物も、開け放たれた玄関からズカズカとはいり込んでくるような人の余地もなく、あの頃の下町の空間は消えていた。
木場の家の玄関横に夾竹桃が植えられていた。元からあったのか、それとも母が植えたのか、わからない。この写真を見ると辛い時間が流れていたようには見えない。だからこそ家族の問題は根深いし、一度負った傷はなかなか癒えないし、癒えないことで苦しんでいても、そんなことでいつまでも苦しんでいるのはおかしいと嘲笑されるしで、踏んだり蹴ったり殴ったりだ。でも妹の死と引き換えに、私はこの苦しみから解放されたのだった。逝く少し前の、妹の大仕事のひとつだ。
私と妹は決して仲の良い姉妹ではなかった。それでもこうしていつまでも妹のことをメソメソと書いているのは、もうあの病室の夜のような、優しい時間を持つことができないことを、寂しく思っているからに他ならない。