がん患者も、治療を終えた元患者も含めて、がんサバイバーとよぶ。がんサバイバーという言葉に差別的な意味を感じないの?とある人から聞かれたことがある。私はその点は気にしていなくて、ある種のスティグマのような印象が、逆に強い印象となって、話を聞いてもらいやすいのではないか思っている。スティグマでもなんでもいい。話を聞いてもらうために、それを逆手にとって利用しようという魂胆だ。
これまで、妹が、そして私が感じた齟齬を、少しでも解消したいと思って、このブログを書き、活動してきた。もちろんこれからもそうしていく。2人に1人ががんになる時代に、がんサバイバーも社会の一員であって、働いたり、楽しんだりしながら、人生を謳歌できるようにしていきたいと思う。
頑張ってね!、がんになったんだから生き方変えたら?、大丈夫大丈夫!治る治る!そういう、通り過ぎていく掛け声みたいな言葉じゃなくて、ただ困ったことがことがあれば聞いてほしいし、助けてもらうだけではなく、できることは何でもしてみたい(それぞれのサバイバーの状況にもよるとは思う)。
ただ最近、少し異なる考えも出てきた。
老いや病を得ること。そしてそれを受け入れていくことのひとつに、孤独を引き受けることもあるのだろうなと思うようになった。がんになってから、老いを感じたし、悔しいこともあった。哀しいこともあった。絶望的に孤独だった。でもそれを全部ひっくるめて、引き受ける必要があるんだろう。そう思えるようになった。幸いにも、私を助けてくれる沢山の人がいたから、いまこんな風に考えられるのだろうけれど。
悔しい思いをして、憤っているとき、差別されたと思うとき。私もその人を差別している。がんサバイバーの悲しみを知ろ!なぜ理解しない!と。なぜ理解できないか、知ろうとしないかを知ろうとしないで、理解しろ!と言い立て、逆差別しているのと同じだ。
だからこそ、「キャンサー・サバイバー・ネクスト・ドア」の活動は続けたい。私たちがんサバイバーの置かれている状況、思いを知ってもらうだけでなく、私たちも、なぜ理解が進まないのか、耳を傾け、相互に知る必要がある。
ワインやグルメをみんな一緒に楽しみながら、サバイバーのミニスピーチを聞く会です。サバイバーでない人もサバイバーも、そこで何でも話せる、聞ける。お互いに考える時間を持つ。そういう時間の積み重ねが、お互いの理解を深めるのだと信じています。
今年は春頃を予定しています。