感謝の言葉を向けられて。
人は死期が近づくと、周囲への感謝の言葉をのべるようになるという。妹も亡くなる1か月ほど前から、折につけ、感謝の言葉を言うようになる。
入院してからしばらくは、病状の悪化や医師への不信感から、ささいなことで怒りを周囲にぶつけていた。夜間になると頭痛がひどくなるからか、イライラして、投げやりな言葉を私や息子にも投げつけることもあった。
原因を探るため毎日検査をしていた頃、初めて死を意識するような頭痛が妹を襲った。病室にかけつけ、妹のベッドサイドに近づくと、来るのが遅いと言って泣きながら怒っている。怒りが収まると、急に私に抱きついて、思ってもみないことを言う。
私はお姉ちゃんが病気のとき、一度もお見舞いに行かなかったのに、なんで毎日お見舞いに来てくれるの?行こうと思えば行けたのに、私は自分の根性が許せない、と言って泣いた。これまで有難う、お姉ちゃん愛しているよ、と言ってまた泣く。私がすっかり忘れていたこと、なんとも思っていないことを引き合いに出して詫びたり、感謝したり、さまざまなことを言って、泣いた。
その様子に驚いたこと、そして、感謝なんてしてくれるな!有難うなんて言ってくれるな!と思った。愛している、と言われたことがショックだった。きれいな言葉を言うようになったら……。考えたくないことが、近づいてきてしまうではないか。私や妹を知っている人なら、私たちがどれほど毒舌で、口が悪いか知っているはずだ。なのに、妹の口からは、きれいな言葉しか出てこない。話すことが難しくなっていっても、とぎれとぎれに出てくる言葉は、感謝と報恩の言葉だった。
人はどうして最期に、感謝の言葉を口にするのだろう。
担当の看護師さんたちが、妹の身体の清浄をし、パジャマの着替えを手伝ってくれたことがあった。はい終わりましたよ、なにかあったら呼んでくださいねと言って病室から離れようとしたとき、待って!行かないで!私もあなたたちのように働きたいの!と叫んだことがあった。飛び起きるかと思うような、あのときの妹の勢いはすごかった。
自分の身の周りの世話をしてくれることへの感謝と、元気になったら、恩返しがしたいという報恩の気持ちをいつも口にするようになっていた。
死を受け止めていたわけではない。でも、その時が近いことを知っているかのように、きれいな言葉を口にするようだった。どんなに美しい言葉でも、まるで合図を送られているようで、私は穏やかな気持ちにはなれなかった。でも逝く前、人はきれいな言葉を贈らずにはいられない。
逝く前にきれいな言葉が起こるメカニズムとは、一体なんなのだろう。
逝く前に感謝の言葉を贈ってくれることで、残された者は、その後も続く時間を生きていくことができる。悲しみはそう簡単には薄まらない。それでも言葉の力は大きいものだ。何度も何度も反芻して、そのうちに発酵して、心の中は時間をかけて静かになっていく。残された者の心を癒してくれるものだ。そういうことが、そもそも人には備わっているのかもしれない。
口の悪い私がきれいな言葉を口にしだしたら、ああそろそろだなと、みんなにすぐわかってしまうけどな。