なぜか無性に小津映画が観たくなる時がある。
もうひとつのブログ「美貌録」で小津映画のことを書きました。無性に小津作品を観たくなることがあるのです。
一番好きな作品は「秋刀魚の味」。小津の遺作です。。ストーリーは相変わらず、と言うべきか、適齢期の娘を嫁に出すか出さないかで悶々とする父と、やめも暮らしをさせるのが忍びなくて、結婚する機会を自分から掴めない娘の話。母はいつ亡くなったんだろうか、詳細は語られないが母はおらず、娘が母親代わりとなり、父と弟の日常生活の面倒を見ている。結局、周囲の尽力もあって、娘は結婚する運びになり、父がひとり侘しさを託つ。
作品の多くがそうであるように、家族の誰かが戦争で亡くなっている設定。それは戦死であれ、病気であれ。戦争を境に、家族の形が変わっている。
小津安二郎の映画には家族にいつも戦争による「欠け」が生じている。紀子三部作ではいつも次男が戦死という設定だし、「秋刀魚の味」も母がいない。戦死したり、爆撃で亡くなったりと、当時はどの家庭でも誰かが亡くなっていたことも影響しているのだろう。戦後の、普通の家庭は、どこもそうだったように。
みんな何かをなくしているけれど、それでも淡々と暮らしている人達。そこが、いいんだよなあ。
喪失したものは、みんなそれぞれ持っているわけだけれど、そしてそれを見ないように生活しているけれど、やっぱりいつも自分の中に抱え込まれていることには変わりなくて。
私が無性に小津作品を観たくなるときは、私の喪失感をそっと一緒に共有してもらうためなんだと思う。妹が亡くなったことだけでなく、私が失ったと思っていることを、一緒に抱えてくれる。だから、観たくなるんだと思う。
戦争があろうが、妹が死のうが、また明日が来るし、今日も晩御飯を食べる。明日の朝も来る。普通に暮らすことのに大切さがある。