ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

神は乗り越えられない試練を与える。がんサバイバーの私のために。

試練を乗り越えるのが、元の生活に戻ることを意味するならNOだ。

「神は乗り越えられない試練を与えない」と、なにか困難なことに直面した際、人はそう言って自身を鼓舞する。この言葉で励まされたりすることもあるかもしれない。私が2度のがん体験を乗り越えられたかどうかといえば、乗り越えている最中だ。まだ自分の生活を完全に立て直したとは言い切れない。でも大丈夫だなきっと、といまは思える状況にいるから心配しないでほしい。

 

私は「乗り越えられない試練」を乗り越えられるのだろうか。それが、がんになる前の生活に戻れることを意味するならNOだ。50歳を超えてまたがんになり、治療に費やさなければいけないこの約2年の時間は辛く、惜しくてたまらなかった。悔しかった。まさかまたがんになるなんて思ってもなかったし、それなりにショックだった。

 

いくつかのことが、もう以前とは違っている。2年前、博士課程に進学してすぐがんになった。治療しながら、細々と大学院へ通い続けたが、進学したときの研究への情熱は少し変化した。どうやって生活を立て直しながら、研究を続けていくのか。寄り添い方を考え直さなければいけない。仕事にもっと軸足を置かなければいけない経済的な状況になった。

 

いまもまだ抗がん剤の副作用が残る。我慢できないことはないけれど、手足のしびれがあり、特に朝の足のしびれが気になっている。

 

強制的に捨てろと促される体験。

2年前、2度目のがん体験をするまでは、狂信的にしがみついていた夢や思いがいくつもあった。がんとなったことで、強制的にそれらを捨てろと促されたように思えてならない。がんにならなければ、捨てることはできなかっただろう。

 

この2年間で、生活の基盤も失くした。大学院での研究も続けられるか怪しい。副作用ものこっている。離れていった人もいる。もう元通りには戻らないことがいくつかある。

 

不可解な人生の偶然性を愛せたら。

こうあるべき!こうありたい!と、がちがちに生きてきた私に与えられたミッションががんで、強制断捨離だったわけだ。

 

「神は乗り越えられない試練を与えない」なんてことはない。しかしがんは、私の増上慢を砕き、私の人生にいらないものは捨てろと迫った。泣く泣く断捨離しリセットしたからこそ、いまこうしていられる。あのままでは進めなかったことは、捨ててみてはじめて理解できた。元通りには戻らないが、この経験を経なければ得られないこともあったのだと思う。

 

人生は本当に不可解だが、「まぁいいか」とその偶然性を愛せたらもっと幸せになれる気がする。「神は乗り越えられない試練を与えない」なんて考えないで、ただゆったりのんきに、あはははと笑っていたらいい。その無邪気さが自分を照らす。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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