ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

有賀さつきさん、さくらももこさん、そしてUさんーーーがんであることをカミングアウトしないという選択。

 

Uさんのこと。

 

まず、Uさんのことを書かせてほしい。この8月でUさんが乳がんで逝ってから1年が経ったのだ。

 

Uさんはある難病を抱えていたところ、2011年に乳がんにも罹患。がんはすでに肝臓へ転移していた。もともとの難病とがん治療、2つの病を治療する生活が始まった。

 

1990年代からライターとして活躍していたUさん。初期はファッションをメインに、また、旅も彼女の得意のテーマとなって、国内外を取材で旅した。私とは2002年からのお付き合いで、美容、着物、人物取材など、たくさんの仕事をした。そのうち個人的にも親しくなり、料理上手のUさんの自宅に招かれることも多かった。いつも彼女のお眼鏡にかなった食材を、Uさん流に調理したオリジナル料理をふるまってくれた。手料理とワインと、Uさん独特のふんわりとした雰囲気に心地よく酔い、ついつい長居してしまうのだった。

 

階段しかない旧い、趣きのあるアパートに彼女と猫だけの暮らしがあった。お気に入りの布を買ってきてマリメッコ風のイラストを描き、それをミシンでじゃかじゃか縫い上げただけの手作りのカーテン、本棚には自分の気になるテーマについての資料をまとめたファイルと、バレエの写真集や本がぎっしりと並び、なぜかその横に小学生の時に手縫いで仕上げたというお人形が飾られていた。小さな部屋にUさんの好きなものだけが圧倒的な物量でひしめき合っていて、Uさんの部屋に行くと、いつも私は森茉莉の「贅沢貧乏」を想い出していた。

 

ライターとして成功し、華やかな生活を送っていたけれど、2008年のリーマンショックで従来のファッションの仕事が減ったことをきっかけに、子供の頃から大好きだったバレエのことをもっと書くと決めた。ファッションの仕事も楽しかったけれど、もう十分やったし、これからは好きなことしか書きたくないのね、と熱く語っていた。実際にバレエ用品のメーカーの広報誌や、専門誌に執筆するようになった。もう好きなことしか書きたくないのね。という言葉通り、ファッションの仕事のオファーを断るようになり、収入もどんどん減っていった。それでも意志は固かった。

 

2011年乳がんに罹患してから。

 

2011年に乳がんに罹患してから、Uさんはがんであることを隠してはおらず、周りの仕事関係者には伝えていた。難病にもがんにも真摯に向き合い、治療にも全力で取り組んでいた。

 

そんなとき、彼女の筆力を見込んで、私がプロデュースするから、難病と乳がんという困難な状況を書きなさいと、親しい編集者に何度も言われていたけれどいつも断っていた。あるとき、その編集者がUさんにひつこく、再度迫ったとき、Uさんは怒った。私はがんには興味がないの!私は自分の好きなことを書きたいの!

 

それから、さらに好きなことだけに集中して書いた。バレエを中心に舞台芸術についての仕事にたくさんかかわった。でも、従来の女性誌の仕事を減らしたから生活も苦しくなって、求人サイトで見つけたアルバイトに出たりもした。色んな人に会えて面白いのよ。人間観察が大好きだから楽しいよ、と言っていた。

  

亡くなる2年ほどまえ、脳への転移のため、放射線治療を行うことになった。当時Uさんと一緒に仕事をしていた私と数人のライター仲間でお見舞いに行きたいと伝えると、来ないで!こんな姿見せたくないし、安易に同情なんかされるの大嫌い!と激高されてしまう。自分に向けられる優しさの精度には厳しいのだが、それでも私が妹の看病で病院に泊まり込んでいるときに差し入れを持ってきてくれたりと、人への温かい心遣いは忘れない人だった。

 

予感。

 

昨年の2月、Uさんが新聞のがん特集のコラムで取材されていた記事を見かけた。さっそくメールをすると、数日遅れて返事をくれた。

 

私は現在入院中。いつものXXX病院にいむすがraisyuuは、xxx病院に転院市、ガンマナイフです。

 

ささいな打ち間違い、ローマ字の混入など、文面が乱れているのがわかり、心が波立つ。ああ。

 

それから月に1度、Uさんにメールするようになった。元気ですか?桜が咲きましたね。お花見はしましたか?と4月には書き、緑が眩しい季節ですね。汗ばみますね。と5月に書いた。お見舞いに来るなと激しく拒否されたことが記憶にあって、会いにいきたいと言えないまま夏になり、メールを送っても返信の文面が明らかにUさんではない誰かが書いていることがわかるようになった。Uさんが自宅療養中に亡くなったと連絡があったのは8月に入ってすぐのことだった。

 

最期のお別れをしたいと、Uさんのアパートを訪ねた。以前のアパートとは違う、初めて伺う部屋だったけれど、部屋のしつらえはあの頃と同じだった。彼女の好きなものだけが部屋をぎっしりと占拠していた。小学生のころに作った手縫いの人形もあった。猫は私たちに姿を現そうとしなかった。Uさんの友人、仕事仲間がひっきりなしに訪れ、部屋中が花で満たされた。美しくて、天然で、頑固で、バレエや舞台芸術を愛したUさんにふさわしくドラマティックに、花々に囲まれて眠っていた。

 

カミングアウトしないという選択。

その時間も情熱も、自分の好きなことのためだけに使いたいから。

 

Uさんの好きなことを書きたいという情熱は結実し、亡くなる前年には日本が誇るプリマの本の編集にもかかわった。2011年に乳がんであることがわかってから2017年に亡くなるまで、一体何冊の本を手掛けたのだろう。本当に好きなことだけを書いた日々だった。

 

有賀さつきさんの死因や闘病の様子はほとんど出てこない。乳がんだったようだが、それも定かではない。さくらももこさんは乳がんだったことは確かで、治療もされていたようだが、これも伝聞の域だ。

 

有賀さんは晩年、古巣のフジテレビで、アナウンサーの講師として後進指導に力を入れていたと聞く。さくらももこさんも、漫画、アニメのみならずエッセイや絵本なども幅広い仕事をされた。

 

私はがんです、とカミングアウトすることで、治療法がどうの体調がどうのと聞かれたり、憶測で記事を書かれるのもうっとうしいし、もともと自分の情熱を傾けたことだけを表現したい人とっては、がんであることは確かに自分の身の上に起こった事実であっても、それを表現したいとかそのために時間を費やしたいと思わないのかもしれない。がんであるなら、命が尽きるその前に、やりたいことをやりたい。時間も能力もそのためだけに使いたいのだ。

 

もちろん、エッセイストとしても名高いさくらももこさんが自身のがん、治療やその生活について書いていたら、それはすごく面白いものになったと思うし、有賀さつきさんだって、彼女独特の感性、そして言葉にセンシティブなアナウンサーとして表現してくれていたら、私たちがんサバイバーにとっても、勇気づけられるものになったと思うから、残念ではある。

 

私はがんには興味がないの!私は自分の好きなことを書きたいの!と言って怒ったUさんの気持ちが、今ならわかる。そして、有賀さんやさくらさんも、きっとUさんみたいな気持ちもあったんじゃないかなと想像する。だから、カミングアウトしなかったのではないかなと。

 

 がんであることをカミングアウトしないという選択もあるんだと思う。

 

 

 

 

 

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