ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

妹が緩和ケアを理解しようとしなかった理由/誤解と不信。

 

治療と同時に開始した緩和ケア

妹が治療を開始してから亡くなるまでの8か月間は、痛みとの闘いだったといえる。妹は抗がん剤治療を開始すると同時に、緩和ケアも始めた。左腕に強い痛みがあり、それは左肩に広がったがんのせいだとのことだった。痛みを取っていきましょうね。緩和ケアは治療と共に進めるものなんですよ。と医師は説明してくれた。緩和ケア=終末期ではない。まず痛みを取ることで、QOLを高め、治療もスムーズに行っていくためにするものだ。処方されたのはオキシコンチン、痛みが強いときに飲むオキノーム、そしてロキソニンだった。

 

妹はロキソニンを中心に使い、オキシコンチンもオキノームもほとんど使用しなかった。その理由は、当時ニュース番組をにぎわしたある事件を知ったからだった。トヨタが起用したアメリカ人の女性役員が、アメリカにいる父親からオキシコドンオキシコンチンオキシコドンの商品名だ)を密かに送らせていたことがわかり、検挙されたという事件だ。この事件が明るみになったのは2015年4月、妹が抗がん剤、緩和ケアを始めたのは5月のこと。まだ記憶に新しい事件だった。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 左腕の痛みを訴える妹に、オキシコンチンは飲んでいるの?と尋ねた。ほとんど使用せず、ロキソニンでしのいでいるという。なんでよ?痛いときはオキシコンチンを飲むように言われてたじゃない?と聞くと、だってさあ、がん治ったときにあのトヨタアメリカ人みたいに中毒になったらイヤじゃん、と言う。大丈夫だよ中毒にならないよ。痛いときは我慢しないで飲みなよと言っても、生返事が帰ってくる。

 

ロキソニン頼りの緩和ケア。

 

医師や化学療法室の看護師さんにも、オキシコンチンをほとんど飲まないから余っていると伝えたという。だって中毒になっちゃうかもしれないですよね?と何度聞いても、大丈夫ですそんなことはありません。痛みを取ることも治療なんですよ。だからちゃんと飲んでください、と言われる。それでも妹は承服しなかった。アメリカにはオキシコンチン中毒の人がいっぱいいて、社会問題になっているらしいよ。中毒になったら困るから、あんまり飲みたくないんだよ、と考えを変えようとしなかった。

 

夏に入り、常に頭痛と高血圧に悩まされるようになり、ようやくオキシコンチンの服用を始める。それでも処方通りには服用していなかったようだ。ロキソニンで我慢できなくなったときだけ、オキシコンチンやオキノームを使う。毎週、頭痛を訴えるため、CTやMRIで検査するが、脳に異常は見当たらない。頭痛はどんどん増す。ロキソニンを大量に飲む。それでもダメなときにオキシコンチンを飲む。それを繰り返した。

 

誤解は不信へ。

 

9月に入ると頭痛はさらに勢いを増す。アバスチンとパクリタキセルを週1回投与する治療を始めて4か月。治療費が家計を圧迫し、妹の家庭は以前にも増して穏やかでなくなっていた。こんなにお金をかけて治療しているのに、一向に良くならない。頭が痛いと訴えているのに、アバスチンの副作用だといって何もしてくれない。この頃から医師への不信感が高まり、どこかほかの病院へ転院したいと言い出した。とはいえどこへ?もう少し様子を見ようよ、と励ましなだめてみたが、お金もないからもう治療はしない。もう病院には行かないってお姉ちゃんから病院に伝えて。私はこのままロキソニン飲んで家で死ぬの、とまで言い出した。痛みを緩和することの意味、治療の評価、そして頭痛への対応。妹と医師との間に生じた誤解が不信に変わっていった。その不信は亡くなるまで払拭されることはなかった。

 

私は、私の主治医A医師や、化学療法室の看護師さんたちには、治療の辛さや日々生じる疑問は何でもぶつけられたし、それに向き合ってくれているという安心感が信頼につながっていた。だから、妹にも何でも医師や看護師さんに話すように促していた。でも、私が得ていた安心感や信頼を構築することができなかった。中毒になるのではないかと心配し、オキシコンチンをきちんと服用しない妹に対し、もっと真摯に説得や、緩和ケアの意味を説明してもらうことはできなかったのか。妹の考える「治る」ということへの執着を、少しでも長く元気に生活する、という考えへ方向転換するように促してもらうことはできなかったか。

 

妹は、ステージⅣで転移もあるし、治らないのはわかっているけど、長く付き合っていけばいいんだ、と言っていた。ところが、患者会などに行くことを提案しても、出向くことはしなかった。いま思えばだが、そこで同じ病気の人たちと知り合って、色々「わかってくる」のを避けていたのかもしれないと思う。本当は自分は治るんじゃないか、ステージⅣでも望外に長生きできるんじゃないか、と信じたかったから。

 

医師や病院の対応次第で、もっと前向きな治療ができたのではないかと今でも考える。でもあの病院、あの医師では無理だ。なんというか…。すべてが後手後手だったのだ。様子を見ましょうと言って、わずかなチャンスをどんどん逃していってしまうような、そんなことがずっと続いていた。

 

治療が「上手くいく」のは、医師との相性の問題が大きい。また、たとえ最終的に治療が奏功しなかったとしても、一度は体調が良好になり、QOLの高い生活が送れる時間があれば、患者本人も家族も納得できる。残念ながら妹にはそういう時間を持つことができなかった。緩和ケアで痛みのコントロールができていれば、少しでも快適な生活を過ごすことができたら、医師と信頼関係を結ぶことができたはずだ。(特に入院してから、病棟の若い担当医とうまく関係が築けなかったこともダメージが大きかった。主治医のT医師は、病棟に来ることは少なく、余命の告知の際にも姿を見せなかった)。

 

そして結局患者自身に行動力があるか。転院したいと言いだしたとき、それを後押しできなかったことを悔やんでいる。妹には、そんな気力も体力も経済力も、底をついていたのだから。そしてすぐ目の前に最期が待っていたのだから。

 

妹が緩和ケアを理解しようとしなかったこと、医師への誤解と不信は、さまざまなタイミングや思いの行き違いの積み重ねだったことは確かだ。そして妹の死生観の問題でもあったのだと思う。治りたいという思いの強さが、現実を受け入れること、理解することをさまたげた。医師と後味の悪い関係のまま、黙って病院を去ることになってしまった。

 

 

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