ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

お姉ちゃん私を殺してと言われた夜。

頭痛と高血圧の正体は、がん性髄膜炎だった 

 このブログは、乳がんで急逝した妹のことを書くことが目的のひとつだ。特に亡くなるまでの妹の様子、そして私が家族として経験したことを書いている。

 

家族だからというだけでなく、私自身乳がんを経験していたから、妹の乳がんの闘病は人ごとではなかった。しかし、私と妹の闘病の経緯はまるで違うものだった。

 

妹は2015年3月に乳がんステージⅣの告知を受け、5月から抗がん剤+分子標的薬・アバスチンの治療開始、治療は順調のように見えたが、夏には頭痛と高血圧に悩まされるようになる。

 

9月に入ると、それまで以上に精神的に追い詰められることが続いた。特に経済的な問題は大きかった。それが妹の生きることへの希望や、あきらめないで治療に臨むという気力を大きく削いだ。

 

医師への不信も大きかった。何度頭痛を訴えてもアバスチンの副作用だと言われる。もう治療はしない。家でロキソニンを飲んで死ぬと言って、自暴自棄になっていた。10月20日に体調を崩して入院、検査を続けてやっと頭痛と高血圧の原因がわかったのは11月に入っていた。妹はがん性髄膜炎だった。

 

ある脳外科医のブログにあった説明がわかりやすかったので、お借りしてきた。

ameblo.jp

 

上記ブログから、がん性髄膜炎についての説明を抜粋させてもらう。

簡単に言えば、脳や脊髄の表面に癌細胞が増殖し、脳や脊髄をおおっている髄液の中に癌細胞がたくさん浮かんでいるような状態です。


前に脳はパックの水に浮かんだ豆腐のような物だと書いたことがありますが、この水の部分に癌細胞が浮かんでいて、脳の表面全体に転移するような状態です。


もちろん、髄液中の癌細胞が生着してそのまま固まりを作ったりもします。症状はさまざまです。しかし、脳の重要な神経は全て表面から出て行きますし、脊髄からの神経も全て表面から出て行くので、これらが侵されます。


それによって最も多い症状が脊髄からの神経への影響で起きる、痛みです。頭痛も起きますし、大半の方が精神的な症状も起こします。さらには半数近くで麻痺などの筋力低下まできたします。

 

 

 がん性髄膜炎のおそろしさ。

がん性髄膜炎とわかってすぐ、妹は余命1か月を宣告された。それまで4人部屋にいたがすぐに個室へと移動することになる。強く激しい痛みが頻繁に妹を襲い、その度に看護師さんたちがバタバタと出入りするため、4人部屋だと他の患者さんに迷惑をかけてしまうためだ。

 

個室に移って面会謝絶となった。それでも10分くらいをめどに少数だけれど、お見舞いしたいという友人の方々の訪問を受けていた。友人の方々の目には、苦し気に努力呼吸する妹の姿は衝撃だったようだ。

 

しかしながら、苦し気ではあるが、言うほどの痛みがあるように思えない、という風に見えていたかもしれない。姉である私が、過剰に妹を囲い込んでいるように見えたかもしれない。

 

妹を面会謝絶にし、お見舞いを制限した理由はふたつある。ひとつは体力の温存である。激しい痛みが起こるのは夜間に集中していた。どうしてなのかを医師や看護師に聞くと、交感神経、副交感神経の働きの影響だという。健常者でも、日中は交感神経が高く、夜間は副交感神経が優勢になるというように変化がある。それが妹の激痛にも関係しているらしかった。日中も痛みはあるのだが、夜間のそれとはまったく違うのだ。痛みから少しでも解放される日中に体力を温存してほしかった。

 

もうひとつは息子のためだ。毎日病室に寄ってくれる彼と少しでもコミュニケーションを取ってほしかったのだ。なるべくお見舞いなどで体力を失わない状態で、母と息子の最期の時間を、彼の心を慰める言葉やふれあいを、少しでも得てほしかった。

 

しかし、こちらの思惑とは裏腹に、彼は小学校が終わると毎日病室に寄ってくれるが、母の様子が刻々と変化していることに恐怖を感じていたようだ。病室で叔母である私とお菓子を食べたり、宿題をしたり、晩御飯を食べたりするのに、母の横たわるベッドサイドに近寄ろうとも、姿を見ようともしなかった。

 

お願いします殺してください。

個室に移ってから、私は毎晩妹とふたりで過ごした。妹のベッドの右隣に、簡易ベッドを作ってもらい、そこで体を横にするのだが、私は一睡もすることはなかった。30分おきに、コトっ、と音がする。飛び起きてどうしたの?と声をかけると、ぃたい…と振り絞るような小声で痛みを訴える。私ができることは、少しの物音でも察知して様子を見て声をかけ、ナースコールで看護師さんを呼ぶことだけだった。

 

いまナースコール押したからすぐ看護師さん来るからねと声をかけ、いつものように励ましていた。点滴の管だらけの妹の左うで。唯一自由になる右うでで、ベッドサイドから離れようとした私の手をつかんだ。妹は目を見開いて、ものすごい形相で私を見つめていた。

 

妹の右手が私を放したとたん、妹は右手で私を拝んだかと思うと、今度はその右手で何度も首を左右に動かした。妹は言葉を発しなかった。でも私には聞こえた。

 

お姉ちゃんお願いします。私を殺して。お願いします。私を殺して。お願いします。私を殺して。右手を拝み倒すようにして、そして首に手をあてて左右に動かす。何度も何度も、その動作を繰り返した。お願いよそんなこと言わないでかおちゃん。いま看護師さんたち、すぐ来るよ。そしたら痛くなくなるからね。そういうのが精一杯だった。

殺さないで済んだ理由。

私は妹を殺さずに済んだのは、私がひとりではなかったからだった。T病院の病棟の看護師さんたちは、妹だけでなく、付き添う私や、息子のことまでよく目配りしてくれていた。

 

そしてもうひとり、妹のママ友のTさんのおかげだった。Tさんは都内の大学病院などで活躍する麻酔医。妹とは、息子の通った幼稚園で知り合った。妹は乳がんと診断されたときすぐにTさんに相談していた。また入院してからは、私からTさんに病状の相談するように依頼していた。

 

主治医や病棟の担当医を信頼できなかった妹は、彼らの施す治療について、逐一Tさんに相談した。主治医より、彼女の言葉を信じた。誤解のないようにいうが、Tさんはただ、いまどうしてその処置をするのかを解説してくれただけだ。しかしTさんの言葉を介すと、妹は落ち着いて、主治医の言うことに聞く耳を持ってくれた。

 

Tさんは私のことも励ましてくれた。お姉さま。お辛いと思います。でも、かおりさんをハードランディングさせてはいけません。ソフトランディングを目指しましょう。

 

妹の苦しむ様子を見かねて、あれやこれやを思いついた。少しでも治療できる可能性を見出してくれるところに転院させるべきなのか。主治医と担当医が2日に一遍、私にホスピスへの転院を勧めるが、それをどうやってやり過ごすか。

 

全身の状態が悪化しているときにアグレッシブな治療はもう望めないし、ホスピスへ移動させると短期間で亡くなることが多いとも聞いていた。だから、息子との時間が少しでも持てるように。それだけを念頭に置いて、無理をしないことを進言してくれた。それが彼女の指すソフトランディングだった。

 

激しい痛みに襲われている妹の様子や、殺してと懇願された夜のことを忘れることはできないが、苦しむ妹を手にかけることがなかったのは、私をひとりしない、支えてくれる人たちがいたからだった。

 

殺してなんて言わせてはいけなかった。でもあのとき、どうすればよかったのか。いまでも後悔することばかりだ。

 

それまで私は患者の立場しか知らなかったが、患者にも、患者の家族にもサポートが必要なんだ、ということを身をもって知った。そして再度、私自身が患者となったとき、家族の戸惑いや悲しみの大きさを見て、心が痛むのと同時に感謝が生まれた。

 

そして少しでも、患者の気持ち、患者の家族の気持ちのことを話したい。伝えたいと思っている。

 

 

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