ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

なぜ私はがんになったのかという問い。

 

慶應の近藤外来で知り合ったKさんのこと。

 

 Kさんと知り合ったのは、2001年9月。慶應病院の近藤誠外来である。

 

左乳房のがんが見つかり、くりぬきの乳房温存療法がしたくて訪れた近藤外来の初診の日のことだった。当時の近藤外来は、日本全国から乳がんを患う女性が集まってきていたと言っても過言ではなく、毎週水曜日、たった週一日しか開かれていなかったことも混雑に拍車をかけていた。その他のがん種の患者さんや、男性患者は少数しか見受けなかった。とにかく見渡す限り、待合は女性であふれていた。

 

朝いちばんで受付を済ませ、待つこと7時間。昼頃のピーク時から比べ、午後3時の放射線科の待合は、落ち着きだす時間帯であった。私は待ち時間のあまりの長さに疲れ、ソファにだらしなく座っていたと思う。くたびれ果てた私の目の前に、長時間の待ち時間をものともせず、お嬢さんとふたりでニコニコしながらお話しされている50代くらいの女性がいた。それがKさんである。

 

Kさんははるばる大阪から来ていた。うち逃げてきたんよ、とKさんはニコニコしながら言う。O大病院で乳がんとの診断を受け、温存手術をするということで納得し、入院・手術の予約も済んでいたのだそうだ。しかし入院直前の検査日に、温存手術後のフォローアップのために通院していた女性と知り合う。温存手術の手術痕を見たことがなかったKさんは、見せてほしいとお願いしたところ、その女性はトイレでこっそり見せてくれたのだという。その手術痕は、Kさんが想像するものとは違っていた。KさんはO大病院の入院手術の予約をキャンセルし、慶應の近藤外来へ、お嬢さんに付き添われてやってきたのだった。

 

Kさんと私はこの日、近藤外来で初診を受け、その後9月末にO病院に手術入院。ほぼ同じ行程で治療を受けることとなり、仲良くさせていただいた。

 

なんでやろ?

なんでがんになったんやろ?と

問い続けたKさん。

 

Kさんは結婚後、栄養士の勉強をされ、資格取得後は栄養に優れた食事を、夫と一人娘のために毎日作ってきたという、良き妻良き母を絵にかいたような、とても可愛らしい奥様だ。朗らかで、お話し上手で、聞けば結婚前はアナウンサーをしていたそうだ。一人娘のお嬢さんは、入団するのが東大入試より難しいとされる劇団に所属されていた元・女優さん。ちょうど私が熱心に観劇していたころに在籍されていたので、とても話が弾んだ。

 

仲良くなったKさんや私を含む、そのころO病院に入院していた人達は、どうやってがんを見つけたか、どうしてここで手術することになったかなどの自分のストーリーを、集まってはいつもかしましく話していた。

 

なかでも、どうして自分ががんになったのかーーーというのは、毎回話題になった。というより、何を話していても、そこに戻ってきてしまうのだった。ある人は人里離れた山奥で20年以上厳密なマクロビオティックをし、またある人は週5日間はテニスやジムに通って体を鍛え、無農薬の家庭菜園でたいていの野菜は作り、半年に一度は献血で健康状態をチェックしていたのに、という。Kさんは栄養士の資格を生かし、栄養学に適った食生活を30年以上続けてきた。タバコも吸わないし、お酒も飲まない。みんな一様に、がんになるような生活は送っていないのになぜ?なぜ?なぜ?と、堂々巡りをする。退院後、放射線治療に通っているときも、そして半年に一度のフォローアップの際にも、顔を合わせればいつも、なぜ?なぜ?なぜ?という問いに戻ってきてしまうのだった。ちさちゃん、なんでやろ?ウチ、なんでがんになったんやろ?なんでやろうなあ?Kさんをはじめみな、いつまでもそれを問い続ける。

 

つまり誰も、乳がんになったことを承服していなかったのである。

 

 問いへの私の答え。

 

一方、私は、がんになったことをそこまで不思議に思ったことはない。20代から30代は倒れるまで仕事をし、いつも睡眠不足で、運動もせず、タバコも吸い、酒も飲み、ほとんどが外食だった。このころ、私が家で1年間に消費するお米はたった2キロだった。つまり自炊はまったくしていないのと同じだった。そんな生活を送り、仕事や人間関係のストレスも抱えていたから、なにかの病気になっても不思議ではなかった。まさか34歳でがんになるとは思わなかっただけである。

 

だから、いつも彼女たちの繰り返すなぜ?を私は不思議に見ていた。私にはそこまでがんになったことを承服できない、納得しようがない、という思いが沸いてこなかったからだ。がんになったことはもちろんショックだ。人生が激変するし、これまで通りにはいかないことを受け止めなければならないことは事実だ。でもあの頃の私にはそこまで疑問に思うことがなかった。みんな私より年上の方々だったため、私とは置かれた人生のステージも異なり、もっと深く重く、受け止めざるおえなかったのだろう。いま私が彼女たちの年齢に追いついたからわかることだ。

 

そして彼女たちの年齢に追いついて、ようやくいまになって、なぜ私はがんになったのかという問いに、私は私なりの答えというのか、承服しうる理由が、私の中から湧いてきたのだった。

 

それにはいくつかの出来事を経験することが必要だった。ひとつは妹の死。私の人生は、妹の死の前と後では、全く異なるものになったと言える。妹の死に至る時間を並走して私が得たものは計り知れず、いまでもどれほど私を慰め、後悔させているか、誰にも想像できないだろう。

 

そしてやはり、これは私だけでなく、日本人全体が喪失感とともに受け止めていることだけれど、7年前に起こった2011年のあの震災体験である。阪神大震災もしかり、広島で起きた山津波、昨年の熊本大震災もしかりだ。平成という時代は、大きな天災が続いた時代だった。

 

日本という国は、古来からあまたの自然災害とともにある。科学の進歩は目覚ましく、地震や災害の予知を研究する科学者たちも多く存在し、地震の起きるメカニズムは解明されつつある。しかし、本当の意味での地震予知はいまだ確立されていない。

 

自然の脅威は犠牲者を選ばない。

 

結局まだわからないことのほうが多いし、わかったところで地震をはじめとする天災を防ぐ方法はないのだ。

巨大防波堤を作っても、津波はやすやすとそれを超えて街を襲った事実の前に、私たちは無力だった。私たちを救ったのは大きくいえば運であったり、その場で取ったとっさの機転であったりした。自然は想像を絶した形で姿を現したたため、対応することは容易なことではなかった。

 

防波堤や、かさ上げされた土地や、災害への備えが無駄というのではない。ただ、人知を超えた災害はこれからも確実にやってくる。

 

そしてがんもそうだ。がんの発生するメカニズムはわかってきてはいるが、それを予知して防いだり、罹患したすべての人を治すことはまだできない。

 

そう考えると、どんなに高度で進んだ文明に生きていたとしても、私たちも大きな自然の一部に組み込まれて、たまたま生命をつないでいるのだな、と思ったのだ。私という人間そのものも自然なのだ。

 

私の命で起こること。生まれたこと、死ぬこと、いま生きていることひっくるめて、自然の一部でしかなくて、そこで起こるさまざまな病気ーーー がんであれ、脳梗塞であれ、心筋梗塞であれ、自己免疫疾患であれなんであれ、私たちは病を得、またはある日突然事故などに遭遇し、死に至ることだけは確実なのである。そしてそれは大きくいえば自然なことなのだ。

 

災害を完全に防ぐことができないように、食事に気を付け、運動をし、たばこをやめても、病を防ぐことはできない。逃れられない。

それが自然だから。

 

自然の脅威は犠牲者を選ばないのだ。

 

 Kさんのなんでやろ?の答えにはならないかもしれない。彼女が私の答えに承服するかはいささか疑問だ。

しかし、自然の脅威はたまたま私を乳がんという形で襲ってきた。そしてたまたま、まだ生命をつないでいる。と、自分の中で承服したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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