2001年、最初の入院中、母が見舞いに来た。
手術には、来なくていいと言った。ただオロオロするだけなのは明らかだからだ。
入院前にも電話をかけてきて、なんでなんで私ばっかりこんな目に遭うのかしらと泣くのだ。こっちのほうが泣きたいのに、娘ががんなんてと言って泣いている母にへきえきし、入院中は来なくていいとあれだけ言ったのに、来た。
手術から3日目、包帯は取られ、手術痕は薄いテープでおさえていただけだった。胸に一本の線がすーーっとあるだけで、胸のシェイプにはなんの影響もない。その低侵襲な傷あとに私は満足していた。同室の患者たちもみな、よかったねこれならお嫁に行けるねと、まるで自分のことのように喜んでくれた。
傷ね、とっても綺麗なんだよ。線が一本すーーーって入っているだけなんだよ。ねえ見てみて。と言うと、イヤ傷跡なんて気持ち悪いもん。といって、夜、ひとりでトイレに行く子供のように怖がった。
私の対面のベッドで横になっていた人に母があいさつをした。突然なにを思ったか、そのとき、母が商っていた化粧品を勧め始めた。そのころの母は、事業が思わしくなく、あらゆる仕事に手を出していた。化粧品もそのひとつだ。
もうやめてよ!早く帰ってくれない? 娘と同室に入院している人に、化粧品を売ろうとするなんて、信じられない! 母は、はいはい、わかりました。と言って帰って行った。
その頃の母は60代前半だったか。仕事が行き詰まり窮余の策だったのだろう。化粧品の仕事がうまくいっていたとは思えなかった。それでも、なにか、どんなきっかけでもあればと、藁をもつかむ思いでいたのだろう。目の前に藁があればつかむ、藁があればつかむ、藁があればつかむ。それを繰り返していた。気の毒だが、どれも見当違いの藁であり、母を助けることはなかった。私はなんにでも見境なくとりすがり、藁をつかむ母を軽蔑していた。
そしていま私自身が、目の前にあるものすべて、藁をつかむ。あのとき軽蔑した母以下の浅ましさで。