三島由紀夫が言った、自分のために生きるのは飽きると。
三島由紀夫のインタビュー動画を見た。
敗戦して世界は終わると思っていたのに、なにも変わらなかったことの驚きと戸惑いを、そして、なんのために生きるのかを語っている。
人間は理想なり何かのためということを考えているので、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。そうすると死ぬのも何かのためということが必ず出てくる。
この部分の発言を聞いて、三島は自分のために生きているよりも、他者の求めに応じて生きることを欲しているのだなと思った。動物占いでいえば自分軸ではなく、他人軸で生きているグループのはず、と調べてみたら案の定、ひつじであって、私と同じだった(笑)。三島も私も、他人軸の人なのである。
三島由紀夫の誕生日は1925年1月14日。
私は三島の純文学作品として書かれたものよりも、一般週刊誌や女性誌などの求めに応じて書かれた中間小説のほうが好きだ。たとえば近年注目されている「夏子の冒険」「美しい星」「命売ります」など、その時々の時勢、流行りなどを巧みに盛り込んだものが好きだ。
日銭稼ぎ、そして晩年は楯の会の活動資金のために中間小説を書いていたのだろう。だけど、そんな作品の中にも三島の想いがそこかしこに横溢している。古典への深い造詣と憧憬、高度経済長期の社会情勢、ファッショナブルな装いや時流を表すような職業などを散りばめながら、面白おかしく読み飛ばさせる。しかし、どこまでいってもやはり三島由紀夫の精神性を深く感じさせるのだ。求めに応じて書いていきながら、自分の想いをそこに反映させることができた作品、それがいま再評価されているのも愉快だ。
他人軸で生きていけるけど、本当の自分も抑えられなくなって、縦の会に突っ込んでいって、引き返せなくなってしまったのかなと私は想像する。
なにが言いたいかというと、三島も私も、他人軸で生きるひつじのくせに、自分をこらえ続けていくのが辛くなってしまうという、面倒くさいタイプだなと思うのである。もっと割り切ってやりなさいなとよくアドバイスを受けるのだけど、自分なりに割り切って、堪えてやってきたつもりなのだ。しかしその状態を続けていくのが難しいのだ。
器用に割り切ることができないなら、かえって、自分を堪えないと決めてしまうのもいいのかも?と思う。いま、少しだけ自分軸にシフトしてやってみたいこと、というか、いまの自分にできることを考えている。
自分軸にシフトの一環が、がんサバイバーとして講演・執筆活動だったり、谷崎潤一郎研究者として、街歩きなどのイベントを企画してみたりだったりする。最初は誰も来ないかもしれない。でもある程度は続けてみようと思っている。自分軸の世界を経験するために。