いま。まあ、不足ない。
ずっと仕事のことで悩んでいた。フリーランスで、がん患者で、仕事がほとんどなかったのだった。治療中でも仕事がしたい。社会の一員でありたい。そういう思いが人より強かったと思う。見苦しいほど、わーわー言っていたのは自覚がある。本当に見苦しい。
治療中にも仕事がしたいとわーわー大騒ぎしていた私に、どうしてそんなに仕事したいのかわからない、と友人に言われたことを思い出す。言われたときは、なんてひどいことを言うのだ。がん患者の孤独がわからないのか。と、憤っていた。でもあの時の私の、仕事がしたい!なにかさせろ!(意訳)という騒ぎっぷりがすさまじかったので、友人も思わずそう言ってしまったのだろう。
人生は、短いスパンで語る生活で成り立つ。
友人が思わずそう言ってしまうのもわかる。人生は仕事だけじゃないのだ。どう考えても仕事だけで成立するものではないのだ。人生という長いスパンで語られるものは、生活という短いスパンで語られる、小説でいえば<節>ともいうべきものの連続があって、それは仕事だけでは到底成り立たない。
些末なことの積み重ねが<節>であって、そういう細部に渡ることこそが、生活の、人生の、質を高める。共に歩むパートナーがいるか、住環境はどうか、趣味の有無、経済状態など、すべてがパーフェクトでなくても、そこに自分の生活を立脚していけるかどうかは、自分の在り方を左右するものだからだ。
病める時の私の生活は、そんなに悪いものではなかった。経済的な不安定さはあっても、心地よく過ごさせようと考えてくれる家族も、友人もいた。でも私の目はいつも外を向いていた。孤立してはいなかったが、孤独だった。
仕事は、手っ取り早い<生きがい>。
いま、仕事があることに心の安寧を得ている私は、結局、自分がまだよくわかっていないのだ。仕事は手っ取り早く、満足を与えてくれる。私の作ったものが世の中に出ていき、人の目に触れる。仕事によって経済的にも支えてもらえる。精神的・経済的な私への<報酬>が明確にあるのが、私の仕事だ。自己満足とも言うが。
だからこそ、仕事以外に、私を満たすものを見つけなければ。仕事という、わかりやすい<報酬>を与えてくれるものに代わるものを…と思いつつ、脳が要求する<報酬>という快感にいつまで振り回されるのだ、と自分にあきれる自分もいる。
どこに軸足を置いて生きるのかによって、病める時、そして死に面したときの在り方をも左右すると思う。それは、治療中の私に突き付けられた課題だったのだが、クリアすることはできなかった。
と思いつつ、仕事しーよっと。