ジコカイジ

self-disclosure‐‐‐乳がんのこと、仕事のこと、生き方のことを書いていくchisa/千祥のブログ。

妹が遺伝性乳がんのカウンセリングを受けたときのこと。

 

告知を受けて。

2015年3月、妹はT病院のB先生から乳がん、ステージⅣと診断を受けた。PETの結果を見ながら、左腕の痛みはがんが肩に広範囲に広がっているためであること、肝臓関門部などに微細ながら光が集積していて、転移を疑われることを告げられた。お姉さんも一緒に来てくれてよかったよ。あなた1人だったら僕、どうしようと思っていたんだ、とB先生は涙ぐんでいる。僕は近藤誠先生を批判する立場だ。でも、あなたのケースは治療しないでもいいかもしれないと僕個人としては思うんだ。積極的に治療すると、辛いことばかりになってしまうと思うんだよ。と言う。そんなこと言われても、子供はまだ小学2年生です。治療しないってわけにいかないじゃないですか!うん、わかるよ。それでも積極的に治療するとね、体中に管を付けられて苦しい時間ばかりになってしまうと思うんだよ。でも先生私、死ぬわけにいかないんです。子供を残して死ねないんです。かみ合わない会話が続いた。B先生のもとで治療するとしたら、標準的な抗がん剤治療を提案するという。私はなんでも正直に話すB先生に好感を持っていた。しかし診断の結果、いきなり無治療も選択のひとつであるという悲観的な説明に、本当にそうなのか、セカンドオピニオンを聞かずには決められない。

 

私たちはG病院にセカンドオピニオンに行くことにした。G病院のI先生はとても優しくていねいに説明してくれ、妹も私も大変良い印象を受けた。いいですか?がんと闘ってはいけませんよ。勝とうとして、生活の全てを治療に賭けるようなことをしてはいけません。普通に今まで通りに生活することを目指しながら治療していくんですよ、と穏やかに話しをしてくれた。しかし妹は結局ここを選ばなかった。もし入院することになったとき、息子が通うのにはG病院は遠いというのである。

 

妹は遺伝性カウンセリングを受けた。

次に乳がん治療で高名なN先生が在籍するS病院へ行った。N先生は、姉である私が若年性乳がんであったこと、私も妹もトリプルネガティブであったことを考えると、遺伝性乳がんの可能性が高いと指摘。遺伝性乳がんであれば治験に入ることも可能だという。妹は遺伝子検査を受けるため、遺伝カウンセラーの女性医師と面談することになった。

 

遺伝カウンセリングを担当する女性医師は、妹に色々と説明してくれた。もし検査の結果、遺伝性乳がんと判明した場合の治験への流れだ。まずアンスラサイクリン系の抗がん剤治療を受けなければならない。その後もし枠が空いていれば、オラパリブの治験に入れる可能性があるとのことだった。遺伝性乳がんは卵巣がんになる可能性もかなり高いため、遺伝性と判明したら卵巣の切除も考えていきましょうね、と説明を受けたそうだ。

 

思っていたより治験への道のりがあること、そしてカウンセラーから遺伝性乳がんだと判明したら卵巣の切除についての提案をされたことに、妹は不快感を示した。カウンセラーにしてみれば、ごく普通に、遺伝性乳がんと診断された後のことを説明したまでで、かつ、卵巣の切除だって、患者本人の意向を無視して行われるものではない。しかし、妹にとっては腑に落ちないものだった。

 

乳がんを治せないのに。

妹の理屈はこうだ。乳がんなら手術をし、標準治療を受ければ治るのは、姉である私を見ているから知っている。ところがステージⅣである自分には手術も適用されない。手術して乳がんを取り除くこともできない。でも乳がんを治したい。いま乳がんを手術することも治すこともできないのに、そしてまだ卵巣がんになったわけではないのに、なぜ卵巣を取る話をするのか。カウンセラーが悪いわけではない。でも妹の気持ちとしては、なんとも承服しかねるものだった。乳がんを治したかった。治ると言って欲しかった。

 

検査を受け、遺伝性乳がんと診断されたが、しかしその後、さらにT病院のT先生のもとにセカンド・オピニオンに行くことにした。T先生は治療法としては、分子標的薬アバスチンを使用することを提案された。妹の自宅からも地下鉄で30分もかからない。もし入院するようなことになっても、ここなら息子もひとりで来れる距離。最終的に、治験に入れるかもしれないというS病院ではなく、T先生のもとで治療することに決めた。

 

心の整理をする時間もなく。

妹は治らないことは知っていた。あと10年、せめてあと5年でいいから生きたいと常々言っていたが、その反面、私ってのんきだから死ぬ死ぬとかいって、20年くらい生きちゃったりしてね、とも言っていた。妹の本心からの目的、ゴールは5年や10年の限定ではなく、あくまでも治ることだったのである。息子を自分の手で育てたい。成長が見たい。孫の顔が見たい。5年や10年ではその願いは叶わないからだ。

 

悲観的なB先生でもなく、穏やかな人柄でていねいに説明してくれたI先生でもなく、N先生のところで受けられるかもしれなかった治験を選ばず、最終的にT先生を選んだのは、最初から治療に際し明確に薬剤名をあげて説明してくれたからだ。妹はがんを治して欲しかった。この先生なら治してくれるかもしれないという希望を持ったのだ。

 

妹は希望というバイアスで、現実を歪めて見ていた。治るんじゃないか、治してくれる先生がいるんじゃないか。私は妹の本心を知っていた。でも、治療をしていく間に、少しずつ現実を見つめ、心の整理をしていくのだろう、そのときは手助けしたいと思っていた。しかしそんな時間は残されていなかった。

 

難しいのは、絶望や厭世的な気分に支配されずに、現実は現実として受け止めて、それでも人生や生活を愛しながら、希望とともに最後まで生きて行こうと思えるかだ。しかしそれができなかった妹を責める気持ちにはなれない。あたりまえのことだけれど、問題というのは往々にして複数の事象が絡み合って存在していた。生活の苦しみも大きく、病気や死にフォーカスして考える時間も余裕もなかった。そのうえ、妹には時間が、圧倒的に時間がなかったのだ。

 

B先生から積極的に治療することを勧めないと言われたが、その真意を妹も私も正確に理解することはできていなかった。I先生のがんに勝とうとしてはいけないという言葉も、本当にはわかっていなかった。それがB先生の預言であったことを、わずか8か月後に知ることになるとは、そのときは知る余地もなかった。

 

緩和ケアにしても、遺伝性乳がんのカウンセリングにしても、患者自身の病気への理解の深度と真意を見極めることが重要なのだとつくづく思う。

 

麻薬中毒になるからと言って積極的に緩和ケアを取り入れようとしなかったり、遺伝カウンセラーの説明に不快感を抱いたり、患者の受け止め方はまったく予想だにしないものだったりする。現在の医療現場のマンパワーでは不可能だが、患者ひとりひとりの理解の歩幅を見極め、そのテンポに合わせながら治療に進んでいくことができる機会はやっぱり必要だ。

 

妹のように、患者会などへ自主的にアクセスしない患者はまだたくさんいる。医療現場では不可能でも、患者教育の場を設け、そこへつなげていくことができれば。がんサバイバーとして、私にやるべきことはまだまだあるし、やらなければならない。

 

 

 

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