小津安二郎の映画を無性に観たくなることがある、という記事を書いた。
小津の作品には、毎日の生活が続いていくけれど、そこにはいつも家族の欠けなど喪失感が後景にある、そして私の中の喪失感を慰めたいとき、小津作品の喪失感を共有したいとき、観たくなるんだよね、っていう話である。
では、私の喪失感っていったいなんだろう?と、ずっと考えている。それは妹の死であったり、私の病気であったりするわけだけど、なぜ私はいつまでも喪失感から立ち直れないのだろう?
確かにこの数年の間に私が経験した出来事‐‐‐妹の死も、私を襲った2度の乳がんも、大きな喪失体験には違いないのだ。少なくとも私にとっては喪失を経験した出来事だったのだけど、もしかして、それは、単にトリガーになっただけなのかもしれない、と思った。
私が喪失を体験したのは、もちろんこれが初めてではない。失うことの連続が、人生の連続なのはわかっている。重要なのは、失ったことを認めること。その悲しみも認め、抱きしめること。それが受け止めるということであり、乗り越えたということなのだろうと思う。
で、考えてみると、もしかして私は、これまでの喪失体験を受け止めていない?乗り越えていないのではないか?と思うのである。そして実はこれは私だけではなく、多くの人がそうなのではないか?
ある出来事が起こる。しかしそれを受け止めることのできない年齢だったり、状況だったり、環境だったりするショックな出来事が経験の記憶として残る。自分にとってショッキングであればあるほど、スティグマとして残る。
ただそれは過去のことであり、単にそういうことがあった、というだけである。その経験から得たショックだけが残っているのであって、その出来事はもうどこにも存在しないのだ。ただ強烈な衝撃波だけが記憶に残っているだけなのだ。
で、生きていると色々なことが起こる。あらゆるショックな出来事が起こる。そのたびに衝撃波が起こり、元々残っているスティグマに伝導し、心の痛みを再現するのではないか。
仕事を失い、母は認知症になり、妹は急逝し、私も病気になった。私がこの7年の間に経験したことは、人生半ばのクライシスとしては、よくある話だろう。
しかし、その出来事に遭うたびに受けるショックは、私の元々あるスティグマを直撃し、心にズキズキと痛みを与え続けた。。。。のではないか?と思った次第。
元々ある私のスティグマに対して、あーそんなこともあったね。そのときの気持ちをずっと無視しててごめんね。いつも外からのショックを受けてビクビクさせていたね。もう大丈夫だから!ただ衝撃波が伝わっただけだから!もうあんなことは起こらないし、起こったにしてももう大人だから対処できるから!
。。。と自分に伝えればいいのではないか?と小津映画を観て思ったんだけど、これって、まんま「ホオポノポノ」だな(笑)
私が読んだことがあるのはこれだけだけど。
ホ・オポノポノ ライフ ほんとうの自分を取り戻し、豊かに生きる (講談社+α文庫)
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とはいえ、妹の死は相当な衝撃だったよな。こんなに死に直面することはなかった。これはもうグリーフケアを学べ、ということなのか、と最近思う。